「……今。2時。」
「こんばんわーっす! ちっす! 夜分遅くにすいませ〜んってばよ」
 扉の隙間からは、酒とヤニの臭いを漂わせたナルトが機嫌良く立っていた。
「あ ナニ中だった!? ど〜もお邪魔してすいませ〜んっと」
 ヘラヘラと笑いながら、扉のわずかな隙間をこじあけて玄関になだれこんでくる。
 止める間もなく、そのまま冷蔵庫を開けて物色している。
「オイ、入ってくるな! 人の家の冷蔵庫を勝手に漁るな!」
「だいじょぶだいじょぶ、ちょうどラーメン食べようと思ったんだけどさ〜 ラーメンに入れるネギがなかったんだってばよ〜!
 ネギがないとね〜ラーメンにはネギがないとダメなんですってばよ〜」
「コンビニ行けばいいだろ…」
「あったああ〜〜〜!!!! ん!? コレ白ネギ!? 青ネギは!?」
「…ねえよ」
「ハアア!? 青ネギを常備してないとは……貴様、関東人だってばよ!」
「帰れ。深夜に大声出すな。帰れ。」
 深夜にコイツのテンションに付き合うのはこれ以上我慢出来ない、さっさと外に連れ出して鍵かけて寝る。
 これから取るべき行動を確認して、玄関の方を振り向くと、扉の外に女が立っていた。
 予想していなかった人間の存在に、不覚にも一瞬体が震えた。
「ナ、ナルト! 何だこの女! お前の連れか!?」
「は〜?」
 強い口調で問いただしている自分が恥ずかしくなりそうなぐらいの、気の抜けた顔でナルトが女を見た。
「知らね」
「お、お前なあ!」
「あ、そうそう! オレがここに来る前からいたんだってばよ。お前の知り合いじゃねえの?」
「…知らねえよ」
 こんな女、全く記憶にない。
 腹のあたりで両手を握り、思い詰めた表情でじっと下を見つめている。
 会社帰りのような比較的フォーマルな格好をしていたが、バッグも持っていない。
 関わり合いになりたくない。というのが第一印象の、うろんな雰囲気だった。
「…っと ネギないんなら用ないわ〜…。邪魔したな! また来週!」
「待て! コイツどうにかしろ!」
「ムリ! 今日のNARUTO疾風伝はここまで! また来週も見てくれってばよ!」
「元はと言えばお前が来たからだろ! 何とかしろ! 友達友達って日頃連呼してんだろ!」
 今にも逃げ出しそうなナルトを引きとめようと手を伸ばした。
 それをすんでのところでかわしたナルトは、颯爽とアパートの廊下を走って行った。
「だいじょお〜ぶ! 人間死ぬ時は一人! だってばよ〜!」
「ナルトォ! 待て! 逃げるな! オレを一人にすんじゃねえ!!」
 階段を駆け降りる音と叫び声だけが、むなしくアパートの玄関に響き渡り、消えた。
 微動だにしない女の様子を、視界の隅で確認する。直視するのに勇気が要ったからだ。
 しかし幸いな事に、女が立っているのは玄関の扉の外だった。
「………」
 薄情にも感じるが、気味が悪い。
 無言のまま、ドアノブに手をかけて、扉を閉めようとした。
「!」
 ドアノブにかけた手に、女の手の平が被さった。
 女の手の、じんわりした熱に戦慄が走る。
 驚きのあまり、女の顔を見た。
 床しか見ていなかった目が、今にも泣きだしそうに二人の手を見つめている。
「………」
 何か言いたそうに、だが口をわずかに開いたままでいる。
 女の泣きそうな顔を見て、不思議に薄気味悪さが少し引いた気がした。
『うちは君って普段冷たくって、よく女の子泣かせてたけどさー女の子の泣き顔に弱かったよね〜』
 この言葉を思い出して、ハッとする。
 先日の同窓会で「昔好きだったんだよ!」と今更にも告白してきた女数十名のうち、
 一人が言い放った、豪胆にもしかし的を得ている言葉だった。
 余計な同情をしてしまう前に、突き放さなければ。
 ドアノブにかけていた手を引き、女の肩を押した。
「…悪い」
 バタンと扉を閉め、鍵をかける。
 助かった。これで良かった。
 と思いながら、またその裏では、扉を閉める直前に見てしまった、涙でうるんだ瞳が強く記憶に残っていた。
 知らない女の筈なのに、泣きだしそうな、何か悲しそうなあの表情をどこかで見たような気がした。
 本当に知り合いじゃないのか? 自分が忘れているだけなんじゃないのか。
 少し痛んでいる淡い栗色の髪、薄く塗られたファンデーション、肌の色は白かった。
 瞳の色は薄い緑、少し釣り目、鼻の筋は通っていて、色素の薄い唇、容姿は中のギリギリ上。
 今まで付き合って来た女の中に、ああいうタイプはいなかった事はないが、誰とも合致しなかった。
 大学の部活で会った事があるとか? それとも取引先でいたか?
 思い悩みながら、ふと扉の覗き窓をのぞいてみると、まだ女は立っていた。
 このまま朝までいたりなんて…しねえだろうな。
 無視するのが一番良い策だと、分かってはいる。
 もし朝までいたとしても警察を呼べばいいだけだ。
 だがそうするには腑に堕ちない自分の感情があった。
 こうやって一晩気に懸けるよりはと、玄関から離れる。リビングに投げてある通勤カバンから、財布を取り出す。
 これで済むなら安い話だ。
 玄関に戻り、鍵を外し扉を開く。
 女は、突然開いた扉に驚いた顔だった。
「これで、泊るところがないならビジネスホテルにでも泊って。 もし家が遠くて帰れないんなら、電話貸すから。携帯持ってないよね? 家族か友人かに連絡して。」
 出来るだけ無表情を努め、女に一万円札を突きだす。
 しかし女は、さらに困惑した表情で見つめ返すだけだった。
「取って」
 金を受け取って、早く行ってくれとこちらは思っているのに、女は行かず、金に触りもしなかった。
 予想外の行動に気が焦る。
「頼む」
 これ以上ここにいられたら、嫌な記憶を想い出しそうだった。
 しかし、そう言った途端に、女はボロボロと涙を流し始めた。
「………」
 泣く理由も分からず何をする事も出来ず、混乱した頭で見つめていると、女の口がわずかに開いてこう紡いだ。
「……ないの。分からないの。」
「…何が」
「帰るところ サスケくんしか」
 胸元に、弱々しく自分の手を自分の手で握って、涙と鼻水で化粧をボロボロと崩れさせて
 女は衝撃の一言を言い放った。
 サスケは扉をもう一度閉める事が出来なくなった。
 茫然とした表情で、すすりあげて泣いている女をじっと見つめていた。

 自分をサスケくんと呼んでいた女は一人しかいなかった。







 どこに住んでいるのか、仕事はしているのか、家族はいないのか。
 何を尋ねても、女は答える事はなかった。
 サスケは根負けして、一夜限り女をアパートに入れる事にした。
 ただの見知らぬ人間だったら、あのまま苦虫をつぶして一夜を明かし警察に引き取らせようとした。
 「サスケくん」の一言だけで、サスケは女を突き離す事が出来なくなった。
 サスケは手持無沙汰に、カーペットの一山突き出た毛をいじっていた。
 返答のない女の態度に、無意識にだが不機嫌そうな顔をしたサスケに女は気付いたようだった。
「あの、ごめんなさい。…覚えてないんです」
 記憶喪失と言うつもりか?
 サスケは、驚くと言うより呆れた気持ちになった。
 申し訳なさそうな顔をして言う女に、嘘を吐いている様子は見られない。
 しかし、嘘を吐いている様子が見れないように嘘を吐いている可能性はある。
「なら、何で人の家の前で立ってたの」
「…気付いたら、あそこにいて」
「オレの事知らないんだよね」
「………」
 女は肝心の部分を言わなかった。
 サスケが何より知りたいのは、女の口から「サスケくん」という言葉が何故出たのかという事だった。
 自分には目の前の女に覚えがなかった。なのに、「サスケくん」という呼び名を知っていた。
 なら、自分の事を知っているのか? と尋ねると、途端に女は黙る。
 女は悲しそうな、申し訳なさそうな顔をして、自分の膝を見つめていた。
 時間と涙で崩れた化粧が、いっそう女の憂いさを際立たせていた。
 これ以上押し問答していても埒があかねえ。
 長いため息の後に、サスケは投げやりに言った。
「もう、答えたくないならいいわ。明日一緒に交番行こう。」
「え、そ、それは」
「あ、いや違うよ。自分の家に帰って欲しいだけだから。家の前で立ってましたなんて言わない。」
「ち、違います。私…」
「違うって何が」
「ここに…」
 ここにおいて欲しい、と言外に女は言った。
「………」
 時計の秒針がチッ、チッ、と響く。
 もう4時になるのか。
 時計を見ながら、サスケはどう言葉を選ぼうか考えた後、女に言った。
「それは無理だから。自分の名前も言わない、何してるのかも言わない、オレを知ってるのかどうかさえも言わない。
 言わないのか分からないのか、知らないけど。
 そういう人間を親切心だけで家に居させてやろうとか、普通思えないだろ」
 我ながら包み隠さず言ったな、と少し心が痛かったが、こうでも言わないと引き下がってくれない。
 女は返す言葉もないのか、黙ったままでいた。
 表情は分からない。サスケはずっと時計の針を見つめていた。
 女は何も言葉を返さなかったし、サスケが言う事もなくなった。
 サスケは立ちあがって、リビングの電気のスイッチに指を当てた。
「……じゃあ、今日はもう寝るから。自分はあそこのベッドで寝て。電気消すよ。」
「私ここでいいですから」
「いいからさっさと」
 今にも怒りだしそうな雰囲気に気付いたのか、女は慌ててベッドに飛び乗った。
 電気を消し、ハア、と遠慮することなくため息を吐いた。
 暗闇の中で座布団を組み敷いて、仮設ベッド。女が寝るベッドから、テーブルを挟んで作る。
 自分のアパートの筈なのにと、情けなさが込み上げる。
 女は訪問時からの図々しさからすると、間逆なぐらいに大人しく横になっていた。
 緊張しているのか、時々するわずかな身じろぎしか暗闇の中ではうかがえなかった。
 緊張…まさか襲われるとか考えてないだろうな。誰がこんなストーカー女…ったく!
 そのストーカー女を、結果として招き入れた自分は何なんだか。
 それにしても、よく考えればこのまま朝まで外に連れ出して、交番に行けばよかったんじゃないのか
 そもそも交番って深夜も警官がいるんじゃないのか…と思い、浅はかな自分の行動を呪った。
 一番の元凶はこの女だが、次に悪いのはあのウスラトンカチ…月曜覚えてやがれ
 悶々と怒りをぶつけながらも、無防備にサスケと女は寝息を立て始めた。



 明るい光と、体の節々の痛みを感じて、うっすらと意識が目覚める。
 テーブルの柱をへだてて、見覚えのあるような、いややっぱりないような顔が映った。
 気持ち良さそうに寝ている。
 誰だ? こんな女連れ込んだか?
 ぼんやりした頭で、ゆっくり思い出そうとする。
 オレは何で床で寝て…体が痛かったのはこのせいか…寝た気がしねえ…
 乱れた髪をかきあげて、上半身を起こす。
 …そうだ、昨晩の、ナルトが連れてきた女だ。
「何でお前も床で寝てんだよ…」
 しおらしいとは思わず、せっかく譲ってやったベッドで寝なかった事に、逆に腹を立たせた。
 サスケは、まずは自分のズボンのポケットに手を入れた。
「…財布、あるな」
 物盗りではなかった…かもしれない。
 チラと女を見る。
 乱れたタイトスカートと太ももの間からは、わずかにパンツが見えていた。
 フン、と笑って立ちあがる。
 脱衣所に行き、顔を洗う。
 服装は普通だ。派手ではないラフなスーツと、パンストとパンプス。会社帰りの女社員そのものだ。
 とすると、余計に動機が不明瞭になる。
 知り合いでも、スリでも、ストーカーでもないとしたら、一体何なんだ?
 水で滴る顔をタオルで拭きながら、女を見る。
 警察に引き取ってもらうしかねえよな…
 ゴミとポリ袋と書籍が散乱する小汚い男の部屋の床で、幸せそうに寝ている様子を見ていると何とも言えない気持ちになるがそれはそれだ。
 開けっ放しにしていたリビングの窓から入ってきた風が、カーテンを揺らし、女の髪をなびかせた。
 突然、通勤カバンから携帯のけたたましいメロディが流れた。
 何故か、起こしては悪いと焦って携帯をひっぱりだす。
 上司の番号だった。嫌な予感がする。
「はい、うちはです。 おはようございます。……はい。はい、分かりました。すぐ行きます。」
 今週は休めると思ったんだが、と少し落胆しながらもシャツを出す。
 やっと仕事が落ち着いたと思えばこれか。
 寝巻を脱いで、シャツに袖を通す。
 身支度を整えながら横目で寝ている女を見るが、起きる気配はなかった。
 財布を持っていってれば、大丈夫だ。金目の物もないし。
 会社から帰ってきたら女が消えている事を願いつつ、サスケはアパートから出た。




 終電にギリギリ間に合い帰宅したサスケは、愕然とした。同時に、やはりとも思った。
「お、おかえりなさい」
 照れっとして女が迎え出た。
 アパートの廊下を歩いていた時から分かった、いつもはしない換気扇から出る調理の匂いが漂っていたからだ。
 部屋の中も、金目の物を目当てに荒らされるどころか、整然と物が片付けられていた。
 こんな家庭的な部屋になったのは、前の彼女と別れた時をメドになかった。
「…怒ってる? …あの、勝手に片付けて…」
 昨晩、いや今朝方の様子とは打って変わって生き生きしている女には構わず、サスケはうなだれていた。
 しかし立ち尽くしていても仕方ないと、リビングのテーブルに座る。
 女が夕食を用意しているのだろう、食器の音を聞きながら、サスケはただ眉間に皺を寄せていた。
「これ、勝手に作っちゃったんだけど…」
 サスケの不穏な様子をうかがいながら、そろそろと、飯とオニオンスープ、煮込チキンの入った盆をテーブルに置いた。
 その盆がひっくり返り、大きな音を立てて床にぶちまかれる。
 女の笑顔ははりつき、サスケは無表情にそれを見つめていた。
「いい加減にしろ」
 ただ声だけが冷たく、しかし怒りの熱を帯びていた。
「今までは他人と思って…言葉を選んでたけどな、はっきり言ってやろうか?
 今すぐ出ていけ」
 女のはりついた笑顔は、徐々に怯えた表情に変わっていく。
「何が目的だ。オレに取り入ろうとしてお前に何の得がある?
 企業の奴か? 昔の女か?
 …さっさと答えろ!」
 ダン、とテーブルに拳を叩きつけると、女の体がビクリと震えた。
「……ち……ちが…」
 サスケの剣幕におののいた女は、震える声で答えようとする。
「はっきり喋れ」
「違う…分からないんです」
「お前な…この期に及んでそんなバカ言ってだまされると思ってんのか?」
「本当に! 分からないんです!」
「じゃあ何でオレのこの場所に居座ろうとしてんだ!!」
 女の必死の言葉をさえぎるように、サスケはさらに言葉を強めて言った。
「お前誰なんだ!? 何であの時間、あの場所に立ってた!
 記憶がないってんなら、何でオレのところにいる!?
 オレはお前に何の好意も持ってねえんだよ!
 迷惑だっつってんのが分かんねえのか!!」
 言葉を重ねる毎に、女の目から涙がボロボロと流れた。
 その度に、何故かサスケも胸に強い痛みを感じた。
 サスケの主張は傍目から見ても正しかった。
 だが、サスケは女の辛そうな表情を見ていると、蝕まれるように心が痛かった。
 女から離せなかった視線を、無理矢理テーブルの上にずらす。
「…分からなくって、」
 ボロボロと涙を流しながら、しかし女は初めて真正面にサスケの問いに答え始めた。
「何も思い出せなくって、気付いたらここの玄関にいて、
 どうしようって、思ってたら、あの、金髪の男の人が来て、
 扉、開いて…
 アナタを見て、『サスケくんだ』って思って、やっと、安心できたの」
「…………」
 体の良い言い訳だ、と言おうとした。
 だが、その言葉を吐き出す事はできなかった。
 まだ、胸が痛かった。





 二人の無言の生活が始まった。
 あれから、女はサスケのアパートから出て行かなかった。
 サスケも出て行けと言う事はなかった。
 ただ、女から話しかけられてもサスケが答える事はなかった。
 女の作る料理にサスケが箸をつけることもなかった。
 仕事で帰りが遅く、休日も度々出勤する事が多かった為、二人が一緒にいる時間はそう多くなかったが
 サスケの無視という反応に、女は傷付いた表情を見せながらもそこに居た。
 唯一サスケが女に与えていたのは、生活するのに最低限必要な物だった。
 女が来て3日目になると、不機嫌そうな顔をしながら自分のシャツと綿のズボンを渡した。
 アメニティの歯ブラシと、緑のバスタオルも無言で渡した。
 タオルについては、自分と同じ物を使うなという意思表示だったのだが逆効果だった。
 受け取った時、女は化粧の落ちた顔を少しだけほころばせてほほ笑んだ。
 二人の生活が何日か続いた。
 女は、サスケが帰って来ると「おかえりなさい」出掛けると「いってらっしゃい」を言い、
 サスケは、相変わらず無言だったが無意識に頬を緩ませた。
 9日目、朝方帰ってきたサスケが、自分が作ったシチューが入っている鍋にスプーンを入れている姿を女は見た。
「…こ、これは、夕飯食べる暇なくて、その、朝方だから店開いてなくて、コンビニ飯は不味いし…そもそもオレの金で買った材料だろ!」
 うろたえるサスケに構わず、女はまた泣いた。
 それからは、女が話しかけるとサスケはポツリポツリと喋り出すようになった。
 いってらっしゃい と言うと、いってきます と
 おかえりなさい と言うと、ただいま と
 恥ずかしそうに、ふてくされたような顔をしてこたえた。
 12日目、珍しく、日が沈んで間もない時間にサスケが帰宅した。
 いつものように女が出迎えるだろうと思っていたが、いつも見える自分の部屋からの灯りがなかった。
「……?」
 扉を開いたが、中には真っ暗な部屋が広がるだけだった。
 出迎える女はいない。上着を脱ぎながら、脱衣所を見る。
 トイレをノックし、扉を開けるが、やはりいなかった。
 整然と片付けられた部屋を見る。いつも居た栗色の髪の女だけいない。
「……出て行ったか」
 誰ともなしにつぶやく。
 言ったが、実感が湧かなかった。
 あの女は何をしにここに来たのか?
 ざっと部屋を見まわしたが、何か盗まれた形跡はなかった。
 それとも、記憶がなくなったという話が本当で、記憶が戻って…
 金も持たずに外に出た? まだ19時とはいえ、シャツとズボンだけの格好で。
 この辺りは治安が良いとはお世辞にも言えない。
 数日前、夜一人で歩いていた若い女が男数人に暴行されたと新聞に載っていた。
 女がいないという事実と、事件に巻き込まれているのではという疑念が湧き起こり、
 気付くとサスケは自転車の鍵を外していた。
 このまま死なれてたりもすれば、後味が悪い。
 事件に巻き込まれて警察沙汰になって、あの服調べられたらオレに疑いがかけられるかもしれねえし。
 言い訳をしながら必死に女を探す自分に気付いていたが、
 サスケは駅から公園、港、思いつく限りの場所を探した。
 目で探す事しか出来ないせいで、労力が倍かかっている気がする。
 名前を呼べない事が、外に出るとこうも不便だという事に初めて気付いた。
「……クソ! 今日はゆっくり休めると、思ったのに…! あの女!」
 最後に当てにしていた、アパートに一番近い公園を3度目に見に行ったところでサスケは自転車を止めた。
 女が行きそうな場所が分からなかった。
 行きそうな場所も、名前も、会話をしていれば分かっていたかもしれない。
 …今更言っても遅い。額にじわりとふき出る汗をシャツの袖でふきとる。
 腕時計を見ると、22時を回っていた。
 これ以上探してどうする。
 出て行ってくれた方が良かったんじゃないのか。
 生活する上でも邪魔だった。これで想い出をかき乱される心配もなくなる。
 事件に巻き込まれてたとしても、知るかよ。むしろ巻き込まれたのはこっちで。
 暴行される女の姿がフッと思い浮かぶ。
 それを押し込めて、コンビニに立ち寄った。
 陰鬱とした気分でアパートの階段を昇る。
 期待か錯覚か、換気扇からもれる調理の匂いがした。
 隣の奴か? 月2ぐらいでやってるからな…
 女が実は既に帰っていた、という期待をしないようにそう思ったが
 自分の部屋の灯りが点いていた。
 まさか。
 おかしいぐらいはやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりと歩く。
 扉を開くと、玄関すぐのキッチンに、栗色の髪の女が立っていた。
「あれ、おかえりなさい。今日は早かったね」
 菜箸を持ってフライパンで肉を焼いている姿は、いつもの女だった。
「? どうしたの」
「…ただいま」
 無表情を努めて、玄関に入り、扉を閉める。
「まだ料理中だから。もう少し待ってて」
「…ああ」
「あのさ、今日一旦帰ってきてた? 上着」
 ベッドの上に投げたままだったが、今は居間にハンガーで吊るされている上着を指して言った。
「…ああ。お前、出てたのか」
「…ごめんなさい、あの、実は時々出てるの。ちょっと外に出たい時」
「別に」
 さっきまで背負っていたものが急に降りたようで、力が抜けていた。
 ドサッと、いつもの定位置の座布団に座る。
 女が、玄関の下駄箱に置いたままだったコンビニの袋をガサガサと探った。
「コンビニ弁当? 今日コレ食べるの?」
「………」
「サスケくん?」
「………ああ」
「そう」
 意外な顔をしながらも、傷付くような素振りは見せずに、女は調理に戻った。
 サスケは、大仰な笑い声が流れるTVをぼんやりと見ている。
 しばらくすると、サスケの前のテーブルにコンビニ弁当が置かれた。
 遅れて、女が自分の分の夕食を盛った皿をテーブルの上に置く。
 カーペットの上に座る。
 サスケはその動作をぼうっと見ていた。
「料理、おいしくなかった?」
 不安げに女が尋ねた。
 サスケはそれには応えず、全く別の質問を投げかけた。
「お前、名前は」
 期待していた応えでなく、予想していなかった質問を投げられ、
 女は一瞬戸惑ったようだったがすぐに答えを返した。
「…まだ思い出せない」
「名前もまだ思い出せないか」
「…うん」
「…名前呼べねえとさすがに不便だろ」
「でも分からないから…そうだ。サスケくんが何か適当に付けてくれない?」
「断る」
「そ、そんな」
「名前つけろなんて、思いつかねえし、大それてんだろ…他人なのに」
「……」
「……」
「でも
 私にとってサスケくんは唯一他人じゃない人だから…」
「……」
「   」
「え?」
「   …とか」
「名前?」
「…別に、今思いついただけだ。」
「いいの?」
「いいのって…いいだろ何でも。何でもいいだろもう。」
「   。」
「……」
「   。キレイだね。勿体ないぐらい。」
「……」
「嬉しい」
「…あんまり言うな」
「何で?」
「…恥ずかしいから。」
 サスケがしまった、と言わんばかりに照れたが、それを見て彼女も頬を紅く染めた。





 季節が晩秋から初冬に変わった。
 厚手の上着を来ていても若干寒気がするような夕暮れだった。
「これから飯行かね?」
「どこで」
「飯食べて酒飲めて安いとこ」
「お前の絡み酒に付き合いたくねえ。他の奴当たれ」
「最近付き合い悪くね? あ!」
 ダラダラと喋っていた調子が打って変わったように変わる。
「女か!」
 目を爛々とさせながら指を指されたが、素知らぬ振りをする。
「付き合いが悪いのと女に構ってるのとで論理を結び合わせようとするな」
「今度は誰なんだってばよ? 会社の女は面倒だから嫌なんだっけ? 野球はやめたからマネって線もないよな」
「だから勝手に話を…」
「待てよ当ててやっから。ん〜でも他にあっか? 出会い少ねえもんな社会人になると…
 ……もしかして! あの時のストーカー女」
 図星を指され、心の中で大きく動揺した。
「〜なわけねえよな! 会社の知り合いの知り合いとかだろ?」
「…別に女じゃねえし」
「って付き合い始めは毎回言ってんよな〜。へー。ハイハイそうですかそうですか」
 ニヤニヤして喋るナルトに、何故かサスケも応えて不機嫌そうに照れていた。
 自意識過剰だと思いつつも、サスケは真っ向に否定もしなかった。
「お前もそろそろ身を固めた方がいいぜ! 奥さん貰ってアパート引き払って、
 持ち家を持ち、ローンを抱えてこそ大人だ。このオレのようにな」
 バン!と勢いよく肩を抱き、歯の白さを強調させるかのようにニッ、と笑いかけてくる。
「お前は早すぎんだよ。もうガキ二人だろ。あと帰り道違うだろ」
 いつも曲がる角でそのままこちらの帰り道を歩くナルトに、まさか、と顔色を曇らせる。
「彼女見せて」
「断る」
「いいじゃん!」
「帰ってガキと女房のお守りしてろ」
「今日は出稽古で実家に帰ってるんだってばよ。オレ寂しいんだってばよ。」
「その言い方気持ち悪いからやめろ」
「コレ子供出来てから赤ちゃん言葉が移っちゃったの」
「どうでもいいから来るな」
「大丈夫だって、夕飯食べさせてもらったら帰るから。邪魔しないってばよ」
「夕飯食う気かよ!」
「彼女いっつも何作るの? おいしい?」
「帰れ!」
「それじゃ〜…サスケのアパートまでダッシュ!」
 大人気なく、全力疾走とばかりにナルトが駆けだした。
 それを見て、サスケは呆れたようにつぶやく。
「…バカが。鍵持ってなきゃ入れねえに決まって…。…鍵…」
 ゴソゴソとポケットの中にある筈のキーケースを探る。
 ハッとして前を見ると、100mほど先にいるナルトの頭上に高らかに掲げられていた。
「……! ウスラトンカチがぁ!!」
 顔面を蒼白にさせ、サスケも大人気なく駆けだした。
 随分走ったが、一定以上の距離が縮まらない事実に、息を切らせながら、歳を取ったと実感した。
 アイツに徒競争で初めて抜かれたのはいつだったか。
 社会人になってからでも、まだ野球をしていた頃は競っていたが
 仕事にかまけている内に大きく引き離されていた。
 横腹の痛みを覚え、あの頃の想い出が蘇りそうになる。



『マジかよ』
 そう顔で訴えかけてくるナルトを無視し、箸を取り汁物を口に運ぶ。
「この人、友達?」
「知り合い」
「オレら十年来の親友だってばよ!」
 冷めた表情で答えるサスケと、その横で両手ピースするナルトの温度差に戸惑いながら
 彼女はナルトに向かって、ニコ、と挨拶のような返事をした。
「友達が来るなら、もっと多めに作ったのに。ごめんね」
「ほんっと気が利かねえなあ! サスケは〜」
「勝手に付いて来ただけだから飯出さなくていいぞ」
「オイ!」
 リーマンと泥酔男とストーカー女、という3人の奇妙な構成に緊張したのか
 ナルトは場を盛り上げようと口数多く喋った。
 そのおかげか、いや元々ウマの合う同士だったのか
 ナルトと彼女はすぐに打ち解け、下手するとサスケとよりも楽しそうに会話し始めた。
「アンタ初めて見た時から思ってたけどさ、本当バカね!」
「え〜酷いってばよ〜。ない? そういう事ない?」
「だから記憶がないって言ってんでしょ」
「もしかして名前も分かんない」
「うん」
「じゃあサスケ、お前何て呼んでんの?」
 心底おもしろくなさそうにTVを眺めていたサスケは、ナルトを一瞥した。
「…………」
 一瞥するだけで答えなかったサスケから、彼女へ視線を移し、ナルトは回答を促した。
「え、と…私がサスケくんに付けてって頼んだの」
「うおっ! マジ? サスケのネーミングセンスが今判明すっぞコレ!」
 そこで何かに気付いたように、サスケが二人を見返した。
「え? え? 名前何て呼ばれてんの?」
「それは――むぐ」
「ナルト! もう遅いから帰れ!」
 彼女の口元がサスケの手で塞がれ、名前がもれることはなかった。
「え〜そんなにやばいやつ?」
 ニヤニヤとナルトの顔がいたずらモードに切り替わる。
 その様子を見て、ヤバイとサスケは冷や汗を垂らす。
「魔女のまに、裏のり、愛のあで、マリアとか? そういう系? そういうの?」
「誰がそんなふざけた名前考えるか!」
 彼女を間に挟みギャンギャンと攻防を繰り広げる二人だったが、タイミング良くナルトの携帯が鳴った。
「オレの携帯?」
「いい歳して戦隊物のテーマ曲着信音にしてんのはお前ぐらいだろ」
 ズボンから携帯を取り出すナルトを見て、サスケは助かったとばかりに胸をなでおろした。
 そこで、今までずっと彼女の口を塞いでいた事に気付く。
「悪い!」
「だ、大丈夫」
 二人共に顔を紅らめる横で、ナルトが携帯を折りたたんで身支度を整え始めた。
「奥さんと子供戻ってきたらしいから帰るわ」
「…お前、人をイライラさせるマイペースさだな」
「ごっそっさんでした! おいしかった! またね!」
 嵐のように過ぎ去って行ったナルトの後、やけに静かに思える部屋で彼女が口にした。
「…ナルトっていうのね」
「ああ。それがどうした」
「知っていたような気がして」
 遠くを見つめるような彼女のエメラルドグリーンの瞳を、サスケは見つめる。
 サスケは何も答えなかった。
 じわじわと、想い出と現実との区別が付かなくなるかのような意識に、見て見ぬ振りをしながら。




 取っ手の付いた、大きくない白い4角形の箱。
 サスケが彼女に手渡した手土産は、
 レジ袋に包まれたバーコード付きの商品や安い寿司折りだとかの、いつもの無作法な包装をしていなかった。
 側面には、繊細な花柄の模様が金のインクで縁取られている。
「…ケーキ?」
「甘いもんが食いたくなった」
 サスケの甘い物嫌いはよくよく知っていた彼女だったから、初めは驚いた。
 家事分の金銭のやりくりを任されてから、初めて作ったプリン。
 部屋に充満する甘い匂いに対するサスケの酷い顔と、大量のプリンを一人で消化した記憶は強く残っている。
 そして、察する事の早い彼女は、このケーキが先日までの暑苦しさからようやく肌寒くなってきた季節に関係がある事に気付いた。
 胃にしみるとコーヒーを控えているサスケには温かい緑茶。彼女は半分のペットシュガーにミルクをたっぷり入れた紅茶。
「ケーキ。味は覚えてる。でも初めて食べるみたいな気分。」
 苺のミルフィーユを目の前に、彼女は静かにはしゃいでいた。
 食べようと思えば食べる機会は幾度もあった筈だが、彼女が甘い物を食べる事はあまりなかった。
「子供みてえだな。…甘い物好きなんだろ」
「うん。実は好きです」
 好きな食べ物知ってたの? 嬉しい! なんて言わず、静かに微笑む。
 そうすると、サスケも静かに口元を緩ませる事を彼女は知っていた。
「食べていい?」
「いちいち聞くな」
 彼女がケーキを口に運ぶ。サスケもならって口に入れた。
「…おいしい!」
「…甘い」
 ぷっ、と吹き出し、クスクスと笑い始める彼女を見て、サスケはブスっとする。
「だって、甘いの嫌いなのに」
「食べたくなったんだよ。たまにあんだよ、そういう時が。」
 彼女にはそれが嘘だと分かっていたが、ただ笑ってケーキを食べていた。
 サスケが二口だけ食べて残したケーキも、本当はお腹がいっぱいだったのに、美味しそうに食べていた。

 電気を消し、サスケはソファで、彼女はベッドで、いつものように横になっていた。
 甘い物が好きだと聞いていたが、買って来て正解だったと、暗闇の中でサスケは微笑んだ。
 しかし、目を瞑り寝ようとしているのだが寝付きが悪かった。
 二口入れただけの、あの甘ったるい後味が口に残っているのが気になって落ち着かない。
 甘い物が好きなら甘いケーキの方がと、会社の女の後輩にお勧めの店をわざわざ訊いたのが裏目に出た。
 もう二度と口にしねえ、と思いながら何の気なしにうっすらと目を開く。
「…な、何だ?」
「あ」
 ベッドで寝ていると思っていた彼女が、自分の目の前に座っていた。少し見じろぐ。
「今日、ありがとう」
「あ、ああ、ケーキか? 分かったから早く寝ろ」
「あの」
 暗闇で分からない筈なのだが、彼女の顔が真っ赤になっているような気がした。
「何か用か」
「その……」
「疲れてんだから早く言え。寝るぞ…」
 言い終わらない内に目を瞑ったサスケに、彼女は振り絞るような声で言った。
「お礼、したいと思って。もう1年になるから」
「ここに来てから…1年ってことか…。バイトでも始めるつもりか? …名前も分かんねえのに…ムリだろ…」
 取るに足らない話だと受け取ったサスケは、もごもごと喋り返した。
 彼女は、妙に歯切れが悪そうに喋りかける。
「うん、お金はサスケくんに貰ってるものだし、だから、考えたんだけど…その」
「………ああ…」
 殆ど寝る体勢に入っているサスケに焦ったのか、言葉を濁していた彼女は次にはっきりと言った。
「私を……」
 サスケがカッと目を見開いた。
 彼女はたまらなく恥ずかしそうに唇を引き結んで、サスケの視線を受け止めた。
「は!? バカか! さ、さっさと寝ろ!」
「だ、だって私がいるから、サスケくん彼女作れないし、そういう事出来ないでしょ」
「オ、オレぐらいになるとそういうのが面倒になんだよ!」
「でも…」
 弱腰ながら引き下がらない彼女に、サスケは一呼吸置いてから複雑そうな顔で言った。
「…そういう身売りみたいな真似はやめろ」
「…」
 しばらく黙った後、意を決したように彼女はサスケを見つめて告白した。
「違う。私、サスケくんの事が好きなの」
 暗闇の中、外から微かにもれる電灯の明かりを受け、光る瞳が真っ直ぐこちらを見抜く。
 こんな、人懐っこい猫のような目を、確かに昔見た。
 真剣な顔をして見つめてくる彼女のその気持ちを、サスケは1年前から察していた。
 その筈なのに。こんな月並みの告白は何回も聞いてきた筈なのに。
 サスケは彼女以上に顔を真っ赤にさせていた。
 耳たぶが熱い。額まで熱で火照っているようだった。
 その告白を受け止めきれずにいた。
 しかし互いを冷静にさせようと、声だけは低く彼女に語りかける。
「それはお前がここから出ずに、外の世界で生活してないからだ」
「…ううん」
「違わない。外に出れば変わる。記憶を戻せば…」
「あのね。記憶をなくした時。何で気付いたらここにいたのか、考えてみたの…」
 サスケの言葉をさえぎって、自分自身に確認するようにゆっくりと彼女は喋り始めた。
「私、記憶をなくす前から、サスケくんの事が好きだったんだと思うの。
 だからここに立っていたんだと思う。
 だって、こんなに話し辛いのに、一緒に暮らしてて辛い事、いっぱいあったのに
 サスケくんの事が好きで、好きで…」
 何を想い出しているのか、彼女の瞳からツゥ、と一筋涙が流れた。気がした。
「ごめんなさい。迷惑だって 分かってるから。」
 女の涙に弱いというのは本当だ。
 しかし、弱いというのは心が痛むという事であって、サスケにとっては
 涙を流す相手の頼みに応えるという意味ではなかった。
 何度女を泣かせたか覚えていない。
 それと同時に、心を痛ませながらも、別れを何度口にしたかも覚えていなかった。
 目の前の女の想いに応えた後の事を、冷静に考える。
 好きだという今の女の本当の言葉は、一体どのぐらいの間、本物になってくれるだろうか。
 記憶をなくす前、愛していた男がいたなら、どう始末を着けるつもりなのか。
 記憶を取り戻したら、どちらを捨てようとするのだろうか。
 明日になったら、あの時のように消えているんじゃないかと
 心の奥深くにしまっている不安を、いつまで抱えて暮らせばいいのか。
「お前はオレ以外に頼る人間がいないから、そう思い込んでいるだけだ。二度と言うな。」
 そう言ったつもりだった。
 栗色の頭を優しくつかみ、女の柔らかな唇を自分の唇に押し付ける。
 互いに必要だと思って告げた別れを後悔した事はない。
 後悔した事はないが、胸の痛みのしこりは溜まり続けた。
 一番初めのしこりと、目の前の女がぴったりと重なった今、体がどうしようもなく熱い。
 あの時、一方的に突き離した感情を、目の前の女に無理矢理当てはめているだけだと分かっている。
「   …」
 分かっていながら、なおも想い出の女と現実の女とを重ね合わせようと、ささやいた。
 唇を離し、意思を確認するかのように強く、その緑の瞳を見つめる。
「サスケくん」
 背筋が震えた。体の芯から熱が沸き起こるような、強い興奮を覚える。
「   」
 呼びながら女の肩を引き寄せ、ギリギリと音を立たせるかのように強く抱き締める。
「   」
 女の柔らかな髪に鼻を埋めて、甘い香りを胸に吸いこむ。
 暗闇の中でわずかな光に照らされる髪は、元よりさらに優しく薄い色に見える。
「…サスケくん」
 背中に回された腕が確かに存在している事を感じ、同時に、想い出が現実を侵食してしまった事を静かに確認した。
 サスケは後悔したが、胸のしこりはなくなっていた。




 白猫を抱きあげ、あやすようにチッチッと鳴いてみせる。
 彼女の抱き方は慣れていないそれだったが、白猫は大人しく腕の中にいた。
「アンタ、良かったわね。サスケくんみたいな優しい人間に拾ってもらって」
 アパートの近くで数ヶ月前から見かける猫だった。
 数日前、車にひかれたのか傷を負って道路で倒れているのを、サスケが見かねて医者へ持って行った。
「あまり触るな、傷に響く。それに野良だから病気持ってるかもしれねえし、ひっかかれたらウミ湧くぞ。注射打ってもらったけどよ」
「うん、気を付ける。飼うの?」
 窮屈なネクタイを緩めてから、彼女の隣に腰を下ろす。
「いや。怪我が治りきったら離す。」
「飼わないのね」
「ここじゃ飼えねえし。飼う必要もない」
 言いながらも、目を細めて、彼女の腕の中にいる白猫の頭を優しく撫でる。
 彼女の腕の中で若干張りつめていた白猫の緊張も解かれたようだった。グルグルと喉を鳴らす。
「…そう」
「飼いたいのか」
「ううん、サスケくんの好きなように。」
 サスケは慣れた手つきで彼女から白猫を抱き上げて、ゲージの中へ入れた。
「愛着がつくからな」
 彼女からゲージの中へ離した理由を言っているようだった。
「サスケくん、猫好きなんでしょう? 飼わないの」
「…別に好きじゃ…。野良猫見つけては飼ってたらキリねえだろ。そもそも、飼っても構う暇ねえ」
「そっか…」
 サスケの横へ行き、ゲージごしに白猫を触るように網に指をすべらす。
「でも、出て行くまでは可愛がってあげてね」
 落ち着かない様子でゲージの中で動く白猫を見つめて言う。
 自分に向けられる強い視線に気付き、サスケの方を見る。
 傍から見れば無表情としかとれない表情だったが、彼女には黒い瞳が暗さを増しているように見えた。
 探りを入れているような、一人取り残される事に不安がっているようなサスケの表情に
 そんなものは杞憂だと知らせる為、微笑んだ。
 サスケの固い表情は変わらなかった。
「サスケくん」
 ゲージに触れた手の上に、サスケの皮膚の厚い手が被さる。
「私、猫じゃないよ…」
 ゲージの中の白猫はようやく落ち着き、静かに横になった。



 真っ暗の部屋に、白い息が揺れている。
 雪が降り止み、日差しの暖かさを思い出す季節になっていた。
 陽のない夜は凍える程寒い季節だった。
 1年と半年、二人分の傷が増えたテーブルの上に
 手紙と封筒が置かれていた。
 手紙には1枚の便箋、封筒には半端な数の現金が入っていた。
 寒さのせいか、便箋を持つ男の手は小刻みに震えている。
「こんな律儀な猫は…確かに…いねえな…」
 震える手を、もう一方の手で握りしめるが、震えは止まらなかった。
 前のように、男が女を探しに出掛ける事はなかった。






「お〜〜〜〜〜」
 真っ青の空を高く飛ぶボール。
「のびるのびる〜まだまだのびる〜〜〜ハイ、ホームラン!」
 ベースに見立てた3つのポリ袋の上を順に、サスケが悠々と走る。
「のおあああ〜〜! サスケェー!」
 赤のグローブで頭をかきむしりながら、ナルトがサスケを指さす。
「お前! 子供の見てる前で父親を貶めるマネするなんて大人気ないってばよ!」
「あんな速くてド真ん中の球、打ってくれと言わんばかりだろ」
 フッと鼻笑いが聞こえてきそうな良い笑顔で、サスケが最後のホームベースを踏んだ。
「おめー下手なんだよ。オレならああはいかねーぞ」
 キャッチャー・審判二役のキバは退屈そうに腰を降ろして言った。
 ナルトが家族4人でキャッチボールをしていたところ、偶然サスケ・キバの2人と赤丸が通りがかった。
 父親の威厳を見せようと勝負を挑んだナルトだったが、打つも投げるも玉砕の結果に終わった。
 3人と少し離れて、ブランコを揺らしていた子供が おとうさんよわーい と叫ぶ。
「何て事言うんだってばよ! 父さんはまだ本気出してないだけ!」
 ニカッと笑って叫び返すナルトに、サスケ・キバが肩をすくめる。
 3人揃って顔を合わせたのが久しぶりという事で、それぞれ近況を挟みながら談笑した。
 上司の酒癖が悪いとか後輩が扱いづらいとか、
 通ってるコンビニにかわいい女の店員さんがいるおっオレも見たとか。
 くだらない話をしつつ、まあお前には関係ないかとキバがサスケをチラと見た。
「サスケ最近調子良いよな。ナルト知ってっか?」
「知らね」
「内容聞く前から即答すんなよ」
 ん? とナルトが目を細めて聞き返す。
「春からコイツ管理職」
「へ〜〜」
 感心しているのかしていないのか、どちらとも付かない目でしげしげと見てくるナルトに、
 サスケは、文句あるのかと言う風に眉をしかめた。
「ま、オレには遠く及ばねえな!」
「お前は次元が違うだろ。零細企業の社長さんよ」
「管理職、役員のTOP!」
「へいへい」
「ヒラ! ベース回収して来い!」
「お前が行け! ってかオレが普通なんだよ!」
 いつの間に側に来たのか、赤丸がキバの手の平を口先で突いていた。
 キバは話しながら、赤丸の首をいつもの手つきで撫でる。
「しっかしあんなボロアパートに住んでる課長なんて笑えんな」
「今月中に引き払う」
 ともすれば聞き逃してしまう程サラリと言ったサスケの言葉に、
 先程までなごやかに笑っていたナルトの顔が急に強張った。
「おっ 遂に? マンションでも買っちゃう?」
「そんなところだ」
 サスケが柔らかく微笑んだ。
 対して、ナルトの表情は硬く、サスケを見ていた。
「でもよ、あそこ。確か小学校の頃から住んでなかったか? すげーよな」
「そうだな」
「んだよナルト、お前もマンション欲しかったのか?」
 会話に加わらないナルトに、また負けず嫌いの血が騒いでいるのかと思いこんだキバが言った。
「それ、本気の話か」
 強張った表情のまま、ナルトがサスケを見つめる。
「ああ」
 柔らかい表情のまま、サスケがナルトを見て答えた。




 さっき別れたばかりの、金髪頭の男が横に並んだ。
「何だ」
「ちょっとだけ」
 サスケは歩みを緩めることなく、ナルトもその歩調に合わせて進む。
「…マジか」
「お前に関係ない」
「関係なくもねえだろ」
 困ったような顔をした後、ナルトが続けた。
「あそこは」
 さえぎってサスケが言う。あくまでも穏やかな口調で。
「もう終わりにする」
「なんでだよ」
「あそこにいたままだと、オレは腐る一方だ」
「別に腐ってねえだろ。あのさ、関係ねえと思うかもしれねえけど、もしかして彼女」
「出て行った」
 ナルトはとっさにサスケの顔を覗き込む。
 その顔は、サスケのいつもの無表情な顔だった。
 対してナルトの顔は、驚きと焦りが走っていた。
「うそだろ」
「何でだよ。いつ出て行ってもおかしくなかっただろ。」
「何で探さねえんだよ!?」
 これまで静かに喋っていたナルトが、糸が切れたように怒鳴った。
 それをサスケは冷めた目で見ていた。
「興奮してんじゃねえよ」
「…冷めてる振りしてんじゃねえよ!」
 いつの間にか道路の脇で二人は立ち止っていた。
 二人の背には長い影がのびている。
「あのアパートから、一人で出て行くつもりなのか」
「悪いかよ」
「…違うだろ! それじゃ、今まであそこに居た意味がねえじゃん!」
「あそこに居た意味?」
「気付いてないと思ってんだろうけど…お前、あそこでずっと待ってたんだろ」
 サスケの瞳がさらに冷たく、ナルトを見る。
 その反応に、ナルトは小気味良さそうに小さく笑った。
「何の話だ」
「とぼけんなよ。いい歳して女の間をまだプラプラしてんのはそのせいだろ」
「会話になってねえな」
「オレの初恋を踏みにじった癖にあげく相手も踏みにじって」
 サスケの頬がピクリと引きつる。
「それを今でも忘れられずに引きずってるバカの話」
 ゆっくりとナルトに近付き、自分より少しだけ高い位置にある眼窩を正面から見る。
「いい加減にしろ」
 ナルトは一層強気に口の端を吊り上げて笑いかける。
「あの時のお前滑稽だったぜ。
 少しでも高い位置からオレを見降ろしたくて必死だったんだろ?
 その為に付き合ってやったって言ったよなあ、オレに!
 の割に別れた後のお前の顔、酷かったよな!
 で、今のお前はどう? 人生順調?」
 言い終わった後、左頬にサスケの拳骨がめり込んだ。
 ナルトの体がそのままアスファルトの床に倒れ込む。
 手加減のない拳だったが、ナルトの顔はまだ笑ったままだった。
「力でねじ伏せれば善いって思ってんのも、そのまんまだな」
「いい加減にしろっつってんだろうが!!」
 サスケの眉は吊り上がり、重たかった瞼は今は代わりに大きく瞳を開いている。
「安心しろって。今頃はお前の事なんて忘れて優しい男とよろしくやってんよ」
 間髪入れず、サスケの右足がこちらへ滑った。右腕が大きく振り被るのを、ナルトは冷静に確認した。
 サスケの拳が自分の頭に触れる直前の一瞬、ほんの少し上半身を落とす。
 サスケの拳はナルトには届かず、みぞおちにナルトの拳が浅く入った。
 ゲホッ、と大きく息を吐き出す。
「型忘れんなって…カカシ先生も言ってただろ」
 言うが速いか、ナルトの左こめかみに拳が落ちた。
 さすがに予想していなかった早い反撃に、
 頭を地面に強く打ちつけたナルトは、眩暈を起こしながらもサスケを見た。
 優位にある筈のサスケは、怒りと焦りで感情を渦巻かせているようだった。
 一人捨てられて、誰ともなく怒りをまき散らす猫のような目をしていると、黒い瞳を見て思った。
「昔のお前は正直だった…って思ったけどよ…やっぱ今も正直だな」
「言いたい事はそれだけか!」
「それだけ引きずってりゃ、女は誰も付いてきやしねえだろ。
 前の彼女もよ…」
「アイツは記憶を取り戻して出て行っただけだ!」
「本当にそう思ってんのか?」
「…お前に関係ない」
「関係ないって言葉使うの、決まって言い訳の時だよなお前…
 でもよ…お前らがどんだけ好き合えてたかは知らねえけど」
 サスケの瞳が真っ直ぐにこちらを見ている事を確かめて言う。
「好きなら好きな程、相手の心がどこに向いてるか、察するもんなんじゃねえの」
 サスケの体がビクッと震えたような気がした。
 勝手な想像してんじゃねえ、という言葉を口にしようとしたが
 全て見透かしているかのようなナルトの淡々とした言葉に、サスケは怖気づいていた。
 口をわずかに上下に動かすだけのサスケを見て、
 ナルトは頭に付いた小石と砂を払い、まだ眩暈のする頭でゆっくりと立ち上がった。
 サスケが振り絞るような声で言ったのは、栗色の髪の彼女の事だった。
「アイツは…そんなんじゃねえ…。オレもアイツも、本来居るべき所に帰っただけだ…」
 憔悴しきった様子で答えた男の瞳には、黒く影が掛かっていた。
 ナルトには、その姿が、自分に向かって同じような言葉を吐き出した十数年前の少年と重なって見えた。
 目の前に立っているのは、がむしゃらに走った結果、行き場所を得たが帰る場所を見失った男だ。
「その調子じゃ彼女が出て行ったのもしょうがねえだろ…」
「サクラは違う!!」
 サスケが声を張り上げた。
 ナルトが目を見開く。
「…サクラって…」
 長い桜色の髪をしたあどけなさの残る少女と、栗色の髪の落ち着いた微笑みを返す女性が並ぶ。
 彼女の名前。
 サスケはその名前をこぼしてしまった事に、既に後悔も驚きもしていなかった。
「お前、サクラちゃんの代わりにしてたのか…」
 反論も出来ず、サスケは口を引き結び、居心地悪そうに顔を歪めた。
「……どうしようもねえな…」
「…うるせえ…!」
 パーカーの袖から見える、震える拳が再び自分へ向けられる事はなかった。
 掛ける言葉を考えあぐねていたナルトが、両者の長い沈黙の後、意を決したようにサスケに提案した。
「……サクラちゃんに会わねえ?」
「…………」
「オレも、何年も会ってねえんだけどよ。去年の同窓会で山中が」
 サスケは顔を背むけ、フラッとナルトから離れた。
「山中が連絡先知ってるって!」
 サスケが聴き洩らす事のないよう、大声で叫ぶ。
「あの『サクラ』ちゃんがいなくなったのも問題だけどよ!
 …お前にとってはまず「サクラちゃん」と会うのが先だろ!」
 言っても足取りは止まらなかった。
 何故そこまで苦しみながら、意地を張り続けるのかナルトには理解しかねていた。
「聞けよ! …サスケェ!」





 駅近くに雑居する飯屋の中の一つの、焼き鳥屋。
 働き始めた頃、飯のついでに酒を飲みたくなる時、よく行っていた。
 染みの付いたのれんをくぐると、安い炭の匂いが鼻にきた。
「っらっしゃいあせー」
 ぶっきらぼうに案内する店員と無愛想な店主。
 小汚い風体の客層も変わっておらず、懐かしさを覚える。
 夕飯を誘った当人であるナルトはまだ来ていないらしかった。
「また人を待たせやがって…」
 先に注文したつくねに食いつきながら、ここに通っていた当時の頃を思い出す。
 前の、その前の女は連れて来た事があった。
『安くておいしいけどお店が汚いんだもん。ホラ、私の作った料理の方がキレイだし、おいしいでしょ?』
 年上で、社会人サークルで知り合った女だった。
 物怖じせず遠慮のない、人を引っ張っていく性格に惹かれて付き合った。
 別れた後は、同じ会社の年上の男と結婚したと、サークルの知り合いに聞いた。
 ふと、今まで付き合って来た女とは、別れた後に親交が続いた事がない事に気付いた。
 一番初めに付き合った女なんて、今は何をしているのか…
 もう結婚してるか?
 フ、と自嘲にも似た笑いがこぼれた。
「オレも今年で30になるんだよな…」
「うっわ遅くなった! 悪りい悪りい! アレ、もう食べてんのか?」
 店の時計を見て20分遅刻した事を確認し、どう嫌みを言ってやろうかと顔をあげた。
 よれよれの部屋着を着た金髪の男と、その後ろには栗色の髪の女が立っている。
「サ……!!」
「……!」
 サクラだった。
 思わず椅子から腰を上げる。
 サクラは驚きとも焦りともつかない顔をすると、店から飛び出して行った。
「ちょ、待て! 何で逃げる! ナルト、これは…」
「待って! サクラちゃん逃げんな!」
 ナルトがサクラを追いかけ、サスケはひとまず千円札をテーブルに置いてナルトを追った。
 人がまばらな週末の駅前を走る。
「ナルト! どうやってサクラ見つけてきた!」
「アレサクラちゃん! サクラちゃんだってばよ!」
「は!?」
「中学のサクラちゃん!」
 自分の顔が驚きではりつくのが分かった。
 一番初めの彼女。猫のようなエメラルドグリーンの釣り目と、眉の整いきっていない、垢ぬけない顔。
 長い桜色の髪。
「馬鹿言うな! 似てねえし! サクラの髪は」
「染めてんだってよ! 派手だからって!」
「染めるって限界が、あるだろ! うちに来て1年の間、ハアッ、変わってなかったぞ!」
 前を走っていたナルトが急に止まった。サスケはその背にぶつかる。
「何やってるウスラトンカチ!」
「見ろってば」
 ナルトの指の先には、改札口の前でバッグの中をかき回しているサクラがいた。
「なに悠長な事…」
 サスケが何かに気付き黙った。
 サクラの栗色だった髪は、改札口の強い光に当たってベージュに近い色になっていた。
 もしかしたら、桜色に見えるかもしれない。
 邪魔な横髪を耳にかける仕草。
 シンプルなチュニックとジーパンを着た、膨らみの少ない身体。
 光の下のサクラは、遠くから見ると、中学の頃の少女がそのまま成長した姿に見えた。
「ああして見ると、化粧しても女って変わんねえもんだよな」
 1年と半年、共に生活して何故気付かなかったのかとは、ナルトは言わなかった。
 サスケも、何故気付かなかったのかと自問する事はなかった。
 走って乱れていた二人の呼吸が整い始める。
 サスケの動転していた気も、いくらか治まっていた。
「色は何カ月かに1回染めてたらしい。勿論記憶はなかったんだけど…って。」
 ホイ、と緑のカードケースをサスケに手渡した。
「…サクラのか? お前、手癖悪すぎるな」
「お陰で改札に突入せずにすんだんだろ! 有難く思えってばよ」
「待て。コレがあるなら走る必要なかったろ」
「早く行かねーとサクラちゃん切符買っちまうぞ」
 だが、サスケは手にしたカードケースを見たまま動かなかった。
「早く行けって」
「いや…オレは…」
 冷静になったせいで、サクラを追いかける事自体に迷いを持ち始めているようだった。
 その様子を見て、ナルトはしびれを切らして怒鳴る。
「さっきまで追いかけてた癖に今更グズグズ言ってんじゃねえよ!」
「…………」
 それでもサスケは眉間にシワを寄せたまま、動こうとしなかった。
「サクラちゃんに二度と会えねえかもしんねえぞ!
 サクラちゃん、別の男と結婚しちまうかもしんねえぞ!」
「…その方がアイツの為かも知れねえ」
 その言葉に、ナルトの拳が震えた。
 殴られる、と思ったサスケだったが、自分に向かって来たのは拳ではなかった。
「じゃあサクラちゃんが他の男と○○○してもいいんだな!!」
 大声で叫んだナルトに、サスケが顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ウスラトンカチ! こんな所で大声で言うな!」
「お前が行かなきゃずっと言う」
「!? ………」
 ナルトに強制的に促され、サスケは納得しかねる顔だったがサクラの方へ走った。
 サスケがサクラに声を掛けるのを確認すると、ナルトは踵を返して繁華街の方へ歩き始めた。
 ポケットに手をつっこみ、機嫌良さそうに口笛を吹いて。


「サクラ」
 改札口の横隅でバッグの中を探っているサクラに、緑のカードケースを見せる。
 振り向いた顔は、自分がいつも使っていたコップを割ってしまった時のような、窮地に立たされたかのような顔だったが
 こちらを認めると、すぐに険しい顔つきになった。
 中学の頃、よく、ナルトやキバ、他の男子に見せていた顔に似ていた。
 自分に向けられるには慣れない表情に、心の中で少しだけたじろぐ。
 サクラはこちらに近付き、無言でカードケースを取ろうとした。
 その腕を掴む。
「サクラ」
 二人で生活していた頃と同じように、名前を呼んだ。
「………」
 サクラは口をぎゅっと結んだまま、何も応えなかった。
 掴んだ腕を、離さず下へ降ろす。
 サスケは、逃げようとするサクラを引きとめる為の言葉を探した。
「…今19時か。どこに住んでる?」
「…神奈川」
「神奈川か。電車だよな」
「…うん」
「終電何時」
「…23時ぐらい…」
「その終電までには必ず帰す。話がしたい。」
 サクラは掴まれた腕に力を入れたまま、うつむいていた。
「何の?」
「………」
 サスケは答えなかった。この沈黙こそが返答だと言うように、サクラを強く見ていた。
「私、明日仕事あるから。サスケくんも忙しいんでしょう。」
「家遠いのか」
「遠くないけど。そういう意味じゃないし。」
「頼む」
「サスケ君、そんな事言うキャラだっけ?」
 ようやく顔をあげたサクラは、眉をしかめて、ニコと笑った。
「お前は性格がキツくなったんじゃないか」
 口元だけ笑ってそう言うと、サクラはキッと緑の瞳で睨んだ。
「元々キツいのよ。サスケ君が知らなかっただけ。」
「オレの事が好きで猫被ってたって事か」
「…しつこい!」
 緩く掴んでいた腕を振り払われる。
「いい加減にして! 全部昔の話でしょ! 私はアンタの事、もう何とも想ってないから!」
 睨みつける緑の瞳をそのまま見返す。
「私、彼氏いるし! 迷惑なの分からない!?」
 相手の言葉には構わず、緑の瞳をただじっと見ていた。
 動揺はしない。
 彼女の言動は読めなかったが、対処は出来ると、ただ冷静に見つめていた。
「昔の想い出にしがみついて、バカみたい…!」
 眉を寄せて、馬鹿にするにしてはやけに哀しそうな顔で言った。
 何も応えず、サクラを見つめる。
 ナルトの言う通りだと思った。
 古ぼけた電球から射す光に当たる彼女の髪は、薄く光り、桜色に見えた。
 桜色の髪の女は、小刻みに震えていた手を胸の前で握っていたが、震えは止まっていなかった。




 サクラが自分の体で隠そうとした小鍋の中身を、サスケがのぞきこんだ。
「お前…」
 サスケは呆れと納得が混じったような顔で、茶色の液体の入った小鍋を見ている。
 サクラは、恥ずかしそうに身を縮ませた。
「どうせ普段料理してねえんだろ」
「…練習してきたんだけど…。アハ」
「小学生でもカレーぐらい作れるぞ」
 叩き込まれる辛辣な言葉に、サクラはただハイと答えた。
「食えねえからそれ捨てろ」
 止めの一撃を食らい、うなだれて小鍋を洗い始めたサクラに構わず
 サスケは、一人暮らしのアパートにあるにしては大きい冷蔵庫の扉を開けた。
「大したもん作れねえからな」
「えっいいよ、それじゃ本末転倒になっちゃう」
 小ぶりの玉ねぎ、人参と椎茸、卵2玉を取り出して、扉を閉める。
「ならお前も手伝え」
 まず、人参の皮を包丁でむぐサクラの手つきの危うさに、サスケが顔を青ざめた。
「人参はいい。玉ねぎ切ってみろ」
 目が痛くなるのが嫌だよね、と話しかけながら皮を手ではぎ、
 サクラが包丁で玉ねぎを切っていく。
 しばらくサスケは黙って見ていたが、慣れて怪しくなったサクラの手元にハッとして言った。
「その持ち方だと指切る。指のばすな。こう、グーにしろグー。そう」
 言われて、サクラはサスケの指示通りに野菜を持つ方の手を変えた。
 玉ねぎに包丁の刃を入れようと力を入れる。
 しかし、刃は玉ねぎには通らず、まな板に滑った。
「玉ねぎ持ってる方に力入れろ」
 言われた通りにサクラがもう一度包丁を当てたが、やはり玉ねぎは滑り、まな板にトン、と空音を立てた。
「このやり方苦手なんだけど…いつものじゃダメかな」
「ダメだ」
 傍らでも焦っている様子が見て取れるサクラの手に、ふいにサスケの手が触れた。
「押さえてやるからそのままもう1回切ってみろ」
 玉ねぎを押さえるサクラの左手に、サスケの左手がしっかりと重ねられる。
 サクラは耳たぶを火照らせた。サスケはほんの少し真剣な面持ちだった。
 しっかりと固定された玉ねぎは、今度は滑る事なく切れた。
 解放されると思っていたサクラの左手が、次は少しだけ左にずらされた。
 包丁を握る右手の甲も掴まれ、玉ねぎに刃が止まった。
「慣れたら切りやすい持ち方でいい。しばらくこの持ち方にしとけ。指切るから」
 自分の包丁の扱いの下手さに、サスケからの辛辣な言葉を覚悟していたサクラの耳には、優しい音色の言葉が届いた。
「野菜には筋があるだろ。ほら、ここ。筋に沿って刃を当てたら切りやすい」
 トン、と軽くまな板から音が立つ。
「頭良いんだからよ、すぐ上達する」
 サスケの一見励ましのようだが正直な意見に、サクラはコク、と頭を頷かせて答える事しか出来なかった。
 豆の出来た固い手の平と、背に触れる自分より広い体に緊張して、料理どころではないと内心思う。
 部活を終えて残った汗の臭いを強く感じて、何故かドキドキする。
 トン、トン、と包丁とまな板の音だけが、二人の居る静かな部屋に響いていた。





 ヒールが地面を突く音を耳で拾い、見慣れた道路を歩く。
 振り払われた腕をもう一度掴む事はしなかった。
 女がすぐ後ろから付いて来ている事を、耳で確かめる事で歩いていた。
 ついこの間までの、二人で歩いていた時の距離より、少し遠い。
 ズボンにつっこんでいる自分の手は弱く震えていた。
 この後数時間で、自分の想い出が終わりを告げる事を感じ取っていた。
 一度、いや二度、捨てると心に決めた女がいざ目の前に現れて、心が動揺している。
 追いかけずにいれば良かったとうっすら思う。
 あのまま一人で居れば、今こんなにも強い胸の痛みは覚えなかった筈だった。
 聞きたい事が山程ある。
「どうやって記憶が戻った」
「何で出て行った」
「何か不満があって出て行ったのか」
「記憶を失う前の生活の方が良かったのか」
「オレに愛想が尽いたのか」
「中学で別れてからもオレの事が忘れられなくて来たんじゃないのか」
「付き合ってる男はそんなに良い奴なのか」
「オレより年収がいい男なのか」
「オレより格好良いと思う男なのか」
「オレより好きなのか」
「1年半無信でも待っていられるような強い繋がりだったのか」
「オレの事が好きだという言葉は嘘だったのか」
 こんな無様な言葉を声に出して言えるか
 震える手も見せたくなかった。
 中学の頃、試合で負けた後、今思えば敗者の遠吠えのような台詞を吐いた後、少女が見せた顔が蘇る。
 あくまでも悪意のない気遣うような表情と言葉に、さらに惨めさがつのった。
 あの頃、彼女の同情から発せられた言葉は、ナルトの核心を突いた皮肉と、同じ程痛く心に残った。
 同情を買う事で、今後ろにいる女を取り戻す事だけはしたくなかった。
 ヒールの音がしない。
 一瞬、聴き逃したと思った。
 歩みを止める事なく、次に立つ音を待った。
 しかし、今自分を横切った車のエンジン音しか聴こえなかった。
 女が立ち止まった事に気付き、心臓の音が早まる。
 女を取り戻したいなら、自分も立ち止まり、無理矢理にでも手を引くべきだと分かっている。
 分かっているが、それは余りにも無様だと思った。
 まだヒールの音は聴こえない。
 駅の改札口でのような事をもう一度やろうとは思えなかった。
 次に、掴んだ手を振り払われたら、どうしていいか分からない。
 既に女の横に他の男がいるなら、オレは昔の想い出にすがりつく無様な男でしかない。
 万一、その無様な男に女が同情を掛けたとしたら。
 同情を誘って関係を得ようとする、そんな無様な行為だけは自分に許す事が出来ないと思った。
 そう強く思う一方で
 それと同じぐらい、想い出がこのまま目の前から消えてしまうのが怖い。
 ヒールの音は聴こえない。
 男は歩みを止めた。
 振り返らず、女の音が聴こえるのを待つ。
 これは賭けだ。
 思いあがりかも知れない。
 さっき、女が震わせていた両手と何かを押し込めるような表情を信じる。
 あの夜、真っ直ぐに告白してきた緑の瞳を信じる。
 記憶を失くして、唯一覚えていたという想い出を信じたい。
 この無様な心だけは隠して、振り返りはせず、待った。
 ヒールが地面を蹴る音が小さく響いた。
 徐々に音は大きくなる。
 直ぐ後ろで音が響いて、止まった。
 女の気配を感じる。
 確認して、歩みを戻した。
 ヒールの音も聞こえる。
 



 いつもより長く感じた帰り道だったが、ようやくアパートまでたどり着いた。
 この後、どう話をすれば良いかなど考えていなかった。
 とにかく部屋の中へ入ろうと鍵を開き、扉を開ける。
 そのまま玄関へ入り靴を脱いだが、後ろを見ると、サクラは扉の前に立ったまま動く素振りを見せない。
「入れよ」
「ここでいい」
 自分を拒絶している事は分かっていたが、ここまで来てなお変わらない態度に焦る。
「オレがよくねえんだよ。入れ。」
「もうここには来ないと思ってたし、来たくないって思ってた。絶対に。」
 壁を作るようにクラッチバッグを前に持ち、毅然とした強い瞳で見返してくる。
「ここで話したいって事だけ話して。長くなってもいいから。」
 いつもなら腕を引いて無理にでも中へ入らすか、それなら帰れとあしらっていたところだが、
 サクラの意思が強い事を感じ取ったサスケは渋い顔をしながらも、そのまま玄関に立ち、サクラと向かい合った。
 と言っても、話す内容なんて考えていなかった。
 ナルトにはサクラを取り戻せというニュアンスの事を言われ、
 確かにサクラを見つけて走ったのは事実だったし、自分から離れるサクラに恐怖を感じたのも事実だったが
 自分が何を望んでいるのか分かっていなかった。
 サクラをもう一度取り戻したいのか。
 虫の良い話だと思う。過去のサクラにも、今のサクラにも。
 今のサクラには今の生活がある。
 それがたとえ不満のあるものでも、…幸せを感じていたとしても、今の自分の存在はサクラにとって部外者に過ぎない。
 また、一度消えたサクラを再び探さなかったのも確かに自分だった。
 その行動も、確かにあの時悩みぬいて用意していた答えだった。
「…早く話して」
 知らず長く向けていた自分の視線に居心地悪くなったのか、フイッとサクラが顔を横にそむけた。
 しかし自分の感情がよく分からず、とっさに出た言葉はサクラへの問いだった。
「お前はどうなんだ」
「どうって何がよ」
「…どうして出て行った」
 呆れたようにサクラは笑って答えた。
「当たり前じゃない。記憶が戻ったから。ああ、ごめんなさい、サスケ君にはとてもお世話になったのにね。お礼まだ言ってなかったね。ありがとう。」
 他人行儀な話しぶりにしては軽い口調でお礼を言われ、自分の知るサクラとは似つかない嫌らしい表情を無感動に見つめる。
「…もしかして、話ってその事?」
「それ以外に何がある」
「ああ…そういう事」
 薄くグロスを塗った唇を光らせ、バッグを開く。
 サクラが取りだしたのは財布だった。
「1年と半年、お世話になったのにごめんね。確かにこれじゃ詐欺に合ったみたいなもんよねえ。」
 何をしているのか理解できないまま、財布の中にある札を数えるサクラを見ていた。
「何円返せばいい?」
 ニコッと笑ったサクラの顔は、厚く化粧を塗った女の顔に見えた。
 右頬を軽く叩いた音が、思いの外強くアパートの階段に響いた。
 予想していたよりずっと驚いた顔をしているサクラを無表情に見つめる。
「何よ」
 一瞬少女のような顔を見せたサクラは、しかしすぐに余裕のあるような笑みを浮かべた。
「……恋人ごっこまでやってやったのにまだ足りないの?」
 自分の瞳が強くサクラを睨みつけるのが分かる。拳を振る代わりに奥歯を噛みしめる。
 サクラの表情が少しだけ曇ったような気がした。
「そう思いながら生活してたのか」
「…………」
「本心で言ってるのか」
「…………」
「オレの知ってるサクラじゃねえみたいだな」
「は? 何それ」
「もういい」
「もういい?」
「時間かけるだけ無駄だったな、お互い」
 フッと笑い、長い瞬きのように目を軽く閉じた瞬間に、バチンと頬を強く叩かれた。
 目を開くと、サクラは気の強い女の顔をして怒っていたが、余裕は見えなかった。
「アンタに言われる筋合いないわよ!」
「何怒ってんだよ」
 サクラの態度に何故かひどく可笑しくなって、表情にもそれがこぼれた。
 サクラはその表情にさらに気を悪くしたようだった。
「何笑ってんのよ? …アンタ、いい加減にしなさいよ!」
「オレは何もしてねえだろ…お前が勝手にここに来たんだろ」
 そう言うと、顔を真っ赤にして拳を震わせた。
 今拒絶している相手の元に、自分こそが向かって来たという事実を恥じている
 にしては怒りの感情を強く感じる、と思った矢先、サクラがその勢いのまま胸中を明かした。
「私がどんな想いでここから離れたのか、分かろうとも思ってないでしょ!?」
 その言葉にはっとしてサクラを見つめ返すと、強気な顔はそのままで、哀しい顔をして見つめ返してきた。
「私だって…!」
 先に続く言葉を辛そうに飲み込む。
 サクラの今の生活は分からない。ただ、真っ当な考えがあってここを離れたらしい事は読みとれた。
 サクラの想いが少しだけ受け取れたと思った今、もうこれで充分だろという声が頭に響く。
 無理にサクラを取り戻しても、それがサクラ自身に価値あるものなのか? …自分自身にとっても。
「オレは…」
 神妙に語りかけてくる様子に気付いて、サクラは微かに表情を柔らかくした。
「別にお前に帰って来いとか言うつもりはない。お互いに生活もある」
 突き離すような言葉に受け取られかねなかったが、口に出して言ってしまった。
 サクラの表情は哀しいほど曇っていく。
「…なんでここまで来て、そんな事言うの」
「…………」
「前と同じじゃない…!! だから、もう終わりにしたかったのよ!」
「…同じじゃねえ。オレはお前がそうした方が良いと…」
「なら何で追いかけてきたの? 話したいって言ったの。」
 自分の感情を矛先に向けられる。逸らそうと、相手を突いた。
「……お前彼氏いるんだろ」
「嘘よ」
 驚いて見たサクラの顔は、あり合わせの嘘を吐いているように見えなかった。
 確かに聞いて、ふっと重荷が取れたように思った。
「なら何で」
 自分の質問に応える事はなく、サクラは矢継ぎ早に喋り始めた。
「私にだって、付き合おうって言ってくれる人もいた。でも付き合わなかった。
 サスケくんの事が忘れられなくて。
 …なのにサスケくんは……!
 勝手に写真観たわ 携帯も見た…。あんなに付き合ってて、楽しかった!?
 私がサスケくんの事を考えてる間、サスケくんは他の女と幸せに暮らしてたんでしょ!?
 私の事なんて忘れてたんでしょう! そう言いなさいよ!」
 興奮して一気にまくし立てたサクラの肩は上下に激しく揺れ、息遣いは荒かった。
「私の事、嫌な女だと思ってるでしょう。うざいって思ってるんでしょ?」
 サクラの緑の瞳は潤んでいた。
「今更追いかけて来て! そうかと思ったら帰れって…! いい加減にしなさいよ!」
 溜まった涙がツゥ、と頬を流れる。
「私の事なんて大して好きじゃないんでしょ!? 今彼女がいないから、適当な事言ってるだけよ!」
 一旦流れた涙は、勢いづいたように次々とあふれては流れて行く。
「何でっ、何も言ってくれないの…! あの頃と同じじゃない!」
 嗚咽を漏らしながら、涙の流れる頬を手の甲で拭きとる。
 サクラの茶色のアイシャドウは、徐々に薄く広がっていく。
「…オレは…」
 掛けるべき言葉は決まっていた。
 決まっていたが、その言葉は決して言えない言葉だった。
「お前がそう思うなら、そう思っていればいい」
 目を閉じて、確かにサクラの耳に届くよう、はっきり言った。
 少しの沈黙の後、サクラが笑ったような気がした。
 その直後、いつもの優しい音色でサクラが喋った。
「ただの…自惚れだと思って聞いてて。」
 まだ目は開けなかった。
「サスケくんは、私がここに居てもいいと思ってる?」
 口を開きかけた。
 だがゆっくりとその唇を結んだ。
 沈黙で返す事の意味は分かっている。
 ズキズキと胸が痛む。
 この痛みを失くす為に今までやってきた事はなんだったのか、という声をかき消す。
「…やっぱりサスケくんはサスケくんのままだね」
 長い沈黙の後、しっかりとしたサクラの声が響いた。
「……でもほっとしたかな」
 重たかった瞼を開いた。
 サクラは大丈夫だ。オレがいなくても。そう無理矢理に思った。
「最後に良い夢見せてくれてありがとう」
 想い出の少女の、最後に見た顔と同じ笑顔だった。
 涙で化粧が崩れ、あちこちに色が付いた酷い顔だった。
 表情だけは少女のまま、ぎこちない笑顔だった。
 サクラはそれ以上顔を見られたくなかったのか、ふっと顔をうつむかせた。
「…何で、名前 サクラにしたの?」
 答えられなかった。
「想い出の中の私を好きなの…?」
 自分にもよく分からないこの感情を、まして本人に伝えられないと思った。
「昔の私に…許される為に傍に置いてくれたの?」
 さっさと目の前から消えろ、と理不尽な願いが強く胸にたぎる。
 あの女を家に招き入れた事は間違いだったと酷く後悔した。
「…サスケくん…」
 サクラの胸に、弱々しく両手が握られる。
 うつむいた顔から、ポタポタと涙が床に落ちる。
「最後だから…手、触っても…いい?」
 答えなかった。
 サクラの左手が、自分の気だるげに下ろされた腕に、一度伸ばされた。
 何かに躊躇し、伸ばした手を一旦胸元に引っ込める。
 少し経って、弱々しくも左手が再び伸ばされた。
 自分の手の甲に指が当たったが、怯えたように軽くはじかれた。
 しかし直ぐに、今度はしっかりと、手の甲を柔らかな指腹でつかまれた。
 しばらくサクラの指は、優しく撫でるように手の甲をつかんでいた。
 このまま想い出が終わるのか。
 終わってもいい。終わるな。もう終わりにする。もうこんな事は終わりだ。
 頭の中に渦巻く思いと想いが激しく拮抗して、どうしていいか分からない。
 自分にとって、サクラにとって、この選択が正しいのか。
 あの頃と同じ場面に、絶対に二度と遭いたくないと思っていた場面に直面している。
 音もなく、サクラの指が自分の手から離れた。
 とっさにその手をつかむ。
 サクラが顔を見上げた。
 サスケの顔は険しく、サクラを見つめ返していた。
 サクラの左手の指に、サスケの右手の指が強く絡まって握られる。
 サスケはそのまま腕を引いて、サクラの体を玄関の中に入れた。
 離した手はドアノブを掴み、扉が閉まった。












「両親が遺してくれたんだ。だから当分はここに居る。」
「うん…」

「あのさ、大人になってもまだ居るのかな?」
「さあな。何があるか分かんねえし。」
「…ね、もしもの話よ? もしも、一度離れ離れになっても、ここに来ればサスケくんに会える…のかな〜なんて」
「…分かんねえって言ってんだろ、そんな事」
「あ、その、言ってみただけだから!」

「大人になったらどうしてるかな…サスケくんは警察官?」
「さあな」
「私は〜サスケくんの…」
「………」
「ち、違うって! そんなんじゃないって! そ、そう、医者になります!」
「…フン」
「ナルトはどうなってるかな? 最初はただのバカだと思ってたけど、最近アイツ伸びすごいし」
「……」
「あ、勿論サスケくんには敵わないんだけど…」


「でも…もし離れ離れになっても、最後には3人一緒に近くに居れたらなって」



「私、きっと、ずっと好きだから…サスケくん…」








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